これは, 1991年1・2月号の「蟻塔」に掲載されたものである.
伊吹おろしの洗礼を受けつつも, 5 月の半ばになるとよ うやく暖かな日々が続くようになる我が郷里では, 待ち に待ったお祭りがやってくる. ものの本には, このお祭 りのことを「養老祭」と記載したものもあるが, 地元の 人々の間では, 地名をとって「高田祭」と呼んでいる. このお祭りは, 愛宕神社の大祭で5 月の17日から19日ま での3日間にわたって行われるのだ. このお祭りの期間には, 町内のあちらこちらにいろいろ な市が立つのであるが, 小生の幼少の頃には植木屋さん や陶器屋さんがテント張りでやって来たものであった. 多分, 現在もこのお祭りの様子はそれほど変っていな いだろうと思う.

               
                     西町の山車とからくり人形

今ではもうほとんどいないと思うのだが, 蛇使 いのおじさんや祈祷をしてお札だを売り歩く(一見すると) 行者の ような格好をした人達など, 俗に言え ば大道芸人もたくさん集まるお祭りであった. また, 小屋掛けでやってくる見せ物も, 子供心に恐ろし いもの見たさではあったが, 待ち遠しいものであった. 以前, 小沢昭一さんの『日本の放浪芸』を集大成したレコード かなにかで, お祭にやってくる小屋掛けの見せ物は 岐阜県に多いことを知ったのであるが, 現在ではいくつ残って いるのか定かでない. 特に, 団長さんの「お代は見ての お帰りだよ」という多少ドスのきいた呼び込みの声が印象的であり, 外か ら幕腰しにちらっと見える出し物も, 当時としてはたいへん興味を 引かれた覚えがある. 特に, 小屋の前に描かれている極 才色の絵は多少グロテスクであったのだが, 一見して興 味をそそられる思いのするものであった. ただし, 小屋 の中に入ってその興行を見てみると, 口上とは全然違う ものも多く, なんとなくがっかりさせられる出し物がほとん どだった. ある出し物の中に, 北極の海獣を見せて くれると言うので, さっそく見に行ったのだが, それは 昨日まで, 小屋の表に転がっていた張り子のオットセイ を見せられたときには, 呆れて物も言えなかった. しかし, 毎年お祭りになると, そんなことは全 部忘れてしまい, また心をわくわくさせながら 見に行くことになるのである. 小生は, なぜかこの小屋を作る段階から見ることが多 かったので, 大道芸一座の丸太を組み上げる小屋掛けの 人夫仕事から, 演技まで を数人でこなすバイタリティには, 驚かされるものがあった. また, お祭が終って興行が終了し, 立ち去って行く一座の人には, もの悲しさが漂っていた ように思う.

お祭りにやっている野師(的屋ともいう)の中に, 偽く じ屋のおっさんもいた. 偽くじといっても子供相手なの で, 30円程度支払って, 当りは望遠鏡やカメラが貰える というものだったが, このおっさん(`おじさん'と書くよ りもなんとなくこう書いた方が親しみがあるのであえて `おっさん' と記述することにした)がくじを引くと, たいてい一等は当たら ないまでも二等や三等が当るのである. さらに, 親切なことに, このおっさんは当りそうなくじを 子供達の前で教えてくれるのだ. しかし, お金を払ってそのく じを引くと大抵いハズレで, 飴やチュウインガムしか貰えなかった. ときどきこのくじで当る子供もいたが, どうもその子は `さくら' であったように思う. このおっさんが持って来る 当りを見れば, ほぼ毎年同じ商品ばかり(年代もの)なので, このく じが全然当らないことがわかるだが. しかし, 子供心に はそれにもましてカメラや望遠鏡が欲しかったものであ る. 当時, 綿飴(綿菓子とも言う)が10円で買えたころ なので, この偽くじ屋のおっさんへの30円の出費は大き かった覚えがある. くじ引きの道具一式, あの「男はつらいよ」の柴又の寅さんが持っている 鞄にいれてやって来ていたように思う. このおっさんの姿は, 背が高く, メ ガネを掛け, 帽子をかぶり, よれよれではあったが, 背 広を着ていたように思う. このおっさんは, 決してテキパキ と口上を述べるわけではなかったが, 話方に独特のリズム があり, 子供たちはなんとなく話に乗せられ, ついお金をだしてくじ引きをすることに なったものである. `寅さん' ほどガッチリしていなくて, 一見よれよれの寅さんだったように記憶している. このおっさんにとっては, 日々違う子供を見ているので, わからないかもしれないが, 当時の我々子供達にとって, この人は毎年お祭りにやって来る顔 染みの偽くじ屋のおっさんであった.

もう一つ, 印象に残っているのは, 木製の簡易拡大機を 売る野師のおっさんであった. 当時は現在のようにコピ ー機などもなく, この機械を使ってこのおっさんが写真 や絵の拡大を実演している所を見ていると, 自分も購入 したいと思ったものである. しかし, いかんせんこの機械の値段は多 少高く, 小学生の小使いでは手が出せるものではなかった. 私の知る限りでは, 黒い色に塗られた一見して高級な 拡大機と, 黄色の廉価版の二つがあったように思われる. 後年, この機械を手に入れ試してみたが, なかなかあ の野師の拡大機を売るおっさんのようには うまく使って描くことができず, この機 械もすぐに壊れてしまったことを思いだす. やはりプロの物売りの実演にはかなわないと 諦めたことがあった. この他, 偽 スコッチ束子, 万能工具, 木綿針の糸通し機など数え あげればきりがない. 一度, 父が万能工具と称して売っているものを買ってきたこと があった. それを使ってみたのだが, ペンチとして使って も歯がすぐに欠けるし, 金槌として使おうと思ってもバ ランスがいま一つで, うまく釘が打てない代物であった. そうこうするうちに, 万能工具は塗装がはげて錆びて使えなくなってしまったのである. しかし, 当時ではそんなものを掴まされても文句を言う人は, ほとんどいなかったのではないか. 文句を言おうにも, 野師はすでに何処かにトンズラしてしまっているし, 腹を立て るほど高いものではなかった. どちらかと言えば, イン チキ商品臭いのは重々わかっており, だまされるのを知 っていて買って帰った人たちも多いのではなかろうか. あのお っさん達の話術へのお礼のつもりもあったかもしれない. 特に, 針の糸通し機など, たとえそれが偽ものだとしても, 老眼に悩む田舎のおばさん達にとっては, 魅力的な品物の一つであったのだ. それほどおっとりとした時代であったのだろう. このようにお祭りの野師の中には, インチキ臭いものを いっぱい売っていた人達もいたのだが, いま考えてみる と懐かしい思いでの商品を運んできた夢を売る や人達であったようだ.

        
            一本かじ棒の山車(「林和靖山車」)

小生の子供心にいまなお存在するお祭りの印象について 少し述べてきたが, 話を本題に戻すことにしよう. この高田祭には, 通常 4台の屋台が出る. 屋台といって も京都の祇園祭に出るものではなく, 高山祭に出る屋台 とほぼ同じものだと考えていただければよい. ただし, 屋台の大きさは, 高山のものよりもひとまわり大きく, その名前も地元では屋台と言わず山車(やま)と呼んでいる. この高田祭の発祥については, 詳しくはわからないのだ が, ものの本によれば宝暦年間に山車奉納芸の記録 が残されているという話を聞いたことがある. この四台の山車の中で二台が`からくり人形' を演じる もので, あとの二つは神楽山車と子供歌舞伎を演じる芸山 車である. 小生の記憶では, 芸山車の子供歌舞伎は, 幼い頃に一度見たことがある.

後年, 小生がからくり人形に興味を持ち始めたのは, 子供の頃 からこのお祭に携わっていたからであろう. とはいっても, ことからくり人形に関して言えば, アマチア の研究家というより一ファンであると言った方がよいかもしれ ない.

私が住んでいた東町には, このからくり人形をも つ山車があり, 小学5 年生から中学3 年生まで男子であ れば, お囃しで参加することが許されるのである. ただ し, 現在ではバックアップに女子も参加できることにな っているらしい. このお祭が近付くと, お囃しの稽古が 始まり, それと同時にからくり人形の稽古も始まるので ある. 小生は, 小学5 年生のときからお囃しに参加したのだが, その中で笛を担当していた. 小生が笛を選んだ理由の一 つには, 父が以前からお囃しの笛を担当していたことも 重要な要因であったかもしれない. 当時, お囃しの稽古は, 専念寺というお寺で午後6 時から2 時間程度行なわれ ていた. しかし, 楽譜が`オ' とか`ヒャ' とかいう文字で 書かれていたので, 最初は面食らったものであった. こ れらのお囃しの先生は, 町内の青年や年寄りたちで, 親切に教 えていただいた思い出がある. たぶん, どこのお祭りで も同じであろうが, なぜか心をかきたてられるものがあり, 皆一丸となって祭を成功させるべく練習に剥げんだもの だった. 町内(東町と中町)で`からくり人形' を操るのは, 青年に 属する人々であり, 子供には操らせてくれなかった. と いうより, お囃しに合わせて人形を操るのは, なかなか難しい ことであることを後になって気づいたのである. ただし, からくり 人形の操り方など, 秘密にするようなことはなく, 誰にでも 見せてくれたように思う.

お囃しの練習の合間に, 人形方のからくり人形の練習の 様子見たりするのも楽しいひとときであった. また, ときには, それを操らせてくれたりしたものであ る. しかし, 当時はそれほどからくり人形に興味を引か れたという印象もない. からくり人形の足や手を ほんの少し動かすだ けでもかなり力もいり, 人形に魂を吹き込み物語を演じる 動きをさせるのは, 相当な熟練がいるという印象しか持 たなかった.

小生が笛の稽古に通うようになったころ, からくり人形のいくつかは解体修理の 時期に指しかかっていた. からくり人形の修理について青年団の人達が, いろいろ工夫している様子を見て, その内部構造がどのように作られているかを, おぼろげに見たり聞いたりした事 を未だに覚えている.

            
            「林和靖山車」のからくり人形と町内会の人々
東町と中町の山車は, 通常, 「林和靖山車」と言われいる. これは中国の故事にもとづいたからくり人形の演 目からその名前がついたと思われる. 演目はだいたい次の通りに行なわれる. 「唐子が花篭に芹をつんで投げ入れる. 一方, 鶴は首を 伸ばし, 羽を広げて羽虫を取るのをやめて首を伸ばして 篭に近付き, 篭の中の芹をつまんではすてる. 唐子はそ れを見つけて鶴を追いかけかける. 仙人は微笑みながら 唐扇子を挙げて唐子を制する.」と言うものである.

登場するのは, 仙人と唐子と鶴だけであるが, 和気あい あいたる遊戯を繰り広げるのである. 仙人のからくり人形は, 少し大柄であり, あやつるには 並み大抵の力ではうまくゆかないであろう. 唐子は, 小振りなので扱い安いと思われるが, 可憐な仕草を演出するには, これも並みの努力では できないことであろう. 特に, 鶴の動きには, 圧倒させ られるものがある. 首の動きや羽を広げた所など, ほんものの鶴のようなしぐさをするのである. 当時, どうしてあんな躍動感溢れる動きをするものを 糸操りで作れるのかと思い悩まない日は無かった. なんと言っても, 1.2mの羽を広げてはばたく鶴の姿は, 圧巻である. からくり人形の最終目標である写実 に迫るものを感じさせられる. ぜひ実際に見て欲 しいからくり人形の一つだ. 今では, どうしてこんなすばらしいからくり人形が, こん な田舎町に残っているのか不思議な気もするのである. このからくり人形を製作したのは, 幕末の尾張の木偶師藤 原真守である. 彼は, 当時の細工師として抜 きに出た人であったらしい. ただし, 小生の推測すると ころでは, 年代をへるに従ってこの鶴のからくりにも幾 分改良が加えられたものと思われる. というのは, その機構があまりにも複雑で, 小生の知る 限りでも故障が多く, いろいろアイデアを出しあって故障を 克服する作業が行なわれていたように思われるからだ. 七代目の玉屋庄兵衛さんの弁によると, 「一度からくり人形を解体修理すると, 80年から100 年の 寿命を得る」というのだが, ことこの鶴のからくりに 関して言えば, このように多少話が違うのではないだろうか. しかし, 改良が加えられているとは言え, 真守の作品の 原型を十分に伝えていることには変りはない.

近年, 小生は山崎構成さんの『曳山の人形戯』という本 の中にこの鶴の構成図 (図 1と図 2 を参照) を見つけ, 鶴がどの ように作られているかを初めて理解した次第である.

  

多分この図をみればおわかりになる方もいると思うのだ が, 鶴の首が20度程度回転し, 鶴の羽虫を取る仕草や羽 を広げはばたく仕草をすることができるのだ. これを糸 を上下に引く作業だけで操るのだがらなかなか大変であ る. 当時, 鶴の首には, バネとして鯨の髭が使われてい たのだが, 現在は定かでない. しかし, 小生の考える 所によるとたぶん当時のままであろうと思う. 機構としては, 真鍮の歯車が数多く使われ, 尾張の 時計技術がここにも生かされているのがわかる. この解体図を眺めていると, 永年にわたりこのからくり 人形を愛し守り続けてきた人々の気迫と愛情が感じられ てならない. 是非後世までずっと守り演じ続けてもらい たいものがある.

           
           猩々からくり人形の内部

もう一つのからくり人形をもつ山車は, 西町の「猩々山車」 である. これは「赤げの夫婦猩々が舞おさめて, 瓶から酒を飲み かわすところを演ずる」というものである. この山車で特に印象に残っているのはなんといっても山 車の先頭についている`采振り人形' であろう. これは 昭和のからくり人形師七代目玉屋庄兵衛さんの作品である. 彼の作品には, 一貫して人形の動きがなめらかで, なん とも滑稽なのがとても素敵だ. 特に, この山車の魅力は側面の 彫物にあるのではないだろうか. これは一見に値するも のである. しかし, どんなに山車が立派でも, 一度からくり人形の演技 が始まると, 人々の注目はそちらに釘付けになってしまう のも事実である.

これらのからくり人形をもつ山車は, 5 月19日の本楽の 日に町の辻々でからくりの出し物を行ないながら, 通り を西から東に, お度所と呼ばれる神社まで巡行すること になるのである. しかし, 雨の日には山車は出ないことになっているので, お祭りが近ずくと, 本楽の当日の天気がやたらと心配 になるのだ. 当然, 雨の日にはからくり人形の出し物を 見ることができない. 来年に御預けとなる. また, お囃し担当の小学生と中学生にとっても, 本楽の日に浴衣姿で晴れの舞台を踏むことができなくなるので, お天気は, 心配の種の一つである.

前述の二つの山車とは, 全然毛色の違うものとして, 下河原の神楽山車がある. これは, 辻々で神楽を奉納しなが ら巡行するもので, 人形が演ずるのではなく, 実際に人が神楽の面を付けて舞を舞うのである. この神楽は, 小生 の知る限りではアクロバット的な要素を多分に取り入れ たものであった. たぶん, 現在では行なわれていないと 思うのだが, あの連続逆回転のでんぐり返しをもう一度, 見てみたい. 素人が練習して演じるウルトラC の演技なので, 怪我も続出したらしい. また, お囃しも動的なリズムを取り入れた もので勇壮な感じがした覚えがある. あのメロデーは一度聞くと忘れられないものがある. お祭というのは, 自分を徹底的に殺してチームプレイで 勝負するものの一つであり, よい意味での町内の連帯感を盛り 上げるものの一つではないだろうか.

高田祭りに出る山車には, ほかの地方の山車と比較し てちょっと変った点がある. それは, 舵棒が前後に一本 ずつしか付いていない点である(通常, 前後に2 本づづ の所が多い). たぶん, この理由の一つは, 道幅が狭く, その割りに山 車が大きく, それを回転させることができないので, 山 車自身が一体で作られているのではなく, 台車とその上の本体を独立させて, 本体が回転する機構を取り入れたからであろう. また, 山車が練り歩く道も真っ直ぐで, 急なカーブがない点 をあげることができる. 通常, 山車の本体と台車は, 四本の樫の木で作られた長さ30cm程度の棒をせん として利用していた. このせんを全部抜くと, 本体が回転する仕組み になっているのである.

東海地方は, からくり人形の宝庫とよく言われる. その 最大の理由は, 尾張に和時計の技術が古くから伝承され ていたからであろう. これがいつの頃からか, お祭りと 結びつき, 現在の山車のからくり人形の形態に変化した のであろう. からくり人形の多くは, 倒立や綾渡りに代表されるアク ロバット性を重視したものが多いのだが, より写実的な 人形を作りあげようとした藤原真守にも拍手をおくり たい.

今, 思い出してみると, お祭りのお囃しに参加するもう 一つの楽しみは, ジュースやお菓子をふんだんに飲んだ り食べたりすることができることであった. 当時は, やはり現在ほど物が豊かではなく, コーラ などの清涼飲料水も自動販売機で簡単に購入 することができなかったので, なかなか子供の口に入らなかった. 小生が最初にコーラ を口にしたのも, このお祭りのお囃しの稽古のときだった のではなかったかと思う. 最初にコーラを一口飲んだとき, 妙に薬臭かったことを今でも記憶している.

何処のお祭りでもそうだが, お祭りを見ると, あ の偽くじ屋のおっさんの姿や ハッカ飴を売る野師のおっさん の姿をついつい探すことになる今日このごろである. また, 洗面機の中に宿借り(蟹に似た小動物)を いっぱい入れて売っていたおっさんの姿も 脳裏をよぎるのである. もう当時の様相で商売などしていないことは重々わか っているのだが.


からくり人形と山車のホームページへ

エッセイの目次のページへ

Contribtion Data のページへ

野寺研のホームページへ <日本語>, <English>