コラム

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夕日は美しい、桜も美しい、そしてあの人も美しい。

なぜ美しいのであろうか。

きっと、そのありようが無作為であるからだと私は思うだ。

夕日というものはあのように見えるように、そしてあのように我々が感ずるように誰かが作ったものではないし、桜もあの人もまた然り。

偶然にもあのような姿をしておりそしてそれが我々の胸を打つから美しいのであろう。

例えば夜景というもの同じであるように思われる。

夜景があのように見えるために都市計画をしたわけではないのに、偶然にもあのような姿でありそれが我々の胸を打つから美しいのだ。

もしも観光資源として「美しい」夜景を作るために都市計画を立てたとしたらそれほど醜く腹立たしいものはない。

我々は偶然たる無作為、無作為たる偶然を求めている。

この世には偶然などなく必然しかないのだという人がいるが、少々正確さに欠けた表現と言わざるを得ない。

我々は誠より生まれいずる必然を偶然と呼ぶ!(結局必然の部分集合だにゃ~)

そしてその誠より生まれ出でた偶然の中にこそ美しいものは眠っているのだ。

偶然(あるいは無作為)であるということは、それが美しいことの十分条件とまではわないがが必要な条件の一つであると私は思う(つまり、美しくないことの判定条件には使える。)。

偉大なる先人が見出してきた数学の美も同じなのではないだろうか。

数学的対象の織り成す様々な関係は、はじめからその関係を満たすように数学を構築したわけではないのにもかかわらず、そのような関係が成り立っているから、きっと美しいのだ。

そう、きっと

・・・・・

まあ~こんなもんであってんじゃねえ~かな~、俺自分で定理なんかつくったことねえ~しな~、結局わかんねえ~よな~。

GWを前に胸躍る静寂の夜に